【線にこだわる意味】
- labyrinthiinaanet
- 2016年4月15日
- 読了時間: 3分
僕が描いている作品は迷路であり、基本的な考え方や構造は絵画などとは全く異なる。迷路であるがゆえにこだわっていることのひとつに、線の作りこみがある。1本の線を髪の毛とした場合、枝毛の枝の部分を取り除くとわずかな欠けが生じる。このわずかな欠けをフラットになるまで修正するというような作りこみをしている。
これまで何人かの人から、見る人はそんな所まで気付かないからあまりこだわり過ぎず、作品の数を増やしていくことを優先させた方が良いのではないかとの意見を頂いた。至極もっともな意見だと思ったし、反論する気持ちも起きなかったが、現時点に於いて僕は線に対するこだわりは放棄していない。
その理由は2つある。ひとつは、僕自身、まだ思うように線を描くことが出来ないということがある。ある程度やりつくし、自分のものにしたという手ごたえでもあれば良いが、それが無い。もうひとつの理由は、迷路がパズルとして流通しているものだということが関係している。
通常、絵画(あるいは写真、彫刻、イラストなど)を鑑賞するとした場合、まずは作品の全体を眺め、近づいて細部の質感や表情などを鑑賞するのではないかと思う。ひとつの作品を鑑賞するのに30分以上の時間を割くことは、よほど感銘を受けた作品か、あるいは、どうしても鑑賞したかった作品と対峙した場合を除き、ほぼ皆無のことだと思う。

僕の作品は迷路であるがゆえに、手にした人が迷路として正しく使ってくれる際には、最低でも僕が設定した入り口から出口までの正解の道を目で追う必要がある。現実には一度も詰まることなく正解の道を辿れる人はいないであろうと考えると、さらに長い時間、僕が描いた線をある程度の集中をもって目で追い続けることになる。
正確に記せば、迷路として使う際に目で追うものは、迷路の道となっている余白の部分で、僕が描いた線は、集中の眼差しからは外れた無意識の領域に存在することになる。無意識の領域にあるということは、僕の描く線はサブリミナルなものとして人の脳内に認知される。
迷路を解くという行為の集中を妨げず、滑らかな視線の誘導を促すために必要な線とは、ノイズの混じっていないフラットな線だと考える。違和感を覚えるような曲率の線なども、僕が意図的に仕込む場合を除き使わない方が良い。
破綻しているもの、バランスが取れていないもの、ノイズとなっているようなものは、目にしている際には気付いていないようでも、無意識下での脳は理解していると思う。僕は、何の違和感もなく、ただ存在しているという作品を作りたいと思っている。
ASA-CHANG&巡礼/つぎねぷと言ってみた










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