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【迷路の中にラビリンスをみた】

  • labyrinthiinaanet
  • 2013年8月23日
  • 読了時間: 3分

昨晩は深夜に目が覚めてしまい、真夜中の2時から制作を行っていました。無言で集中しながらぐねぐねと曲がる迷路の模様を描き込んでいるとき、ふと「この模様はラビリンスじゃないか」と気付きました。自分が描いている迷路にみられる脳のしわのようなぐねぐねした模様は、人が迷路を描くとした場合には極めて出現しやすいポピュラーな模様で、小学生の男の子が自由帳に描く迷路の中などにもよく見られるものです。

迷路におけるぐねぐね模様は単調なリズムの繰り返しで描けてしまいます。頭を使わずに面積を埋める際には便利であり、制作の速度も上がりますが、単調な繰り返しであるばかりに、中に入り込む前にその先が行き止まりだと見通しやすくなりがちです。このため、自分の作品制作においては意識的にぐねぐね模様のみの構成が続くということは避けるようにしていました。

しかし、ぐねぐね模様こそがラビリンスそのものなのだと気付いた瞬間、ぐねぐね模様は、迷路にとってとても重要な模様なのだとわかりました。そして、自分の頭の中にあった迷路って何なんだ?という基本的な疑問や、自分が目指している迷路作品について改めて考えることが出来ました。今回は、考えた結果に自分が得たことを記して終えたいと思います。

動物は、自分が食われるかも知れない、あるいは、獲物を狩るというような瞬間的な判断を求められる行為に対しては迷いを持つが、生きるということ、自分がこれから死に向かうということに対しては、迷いを持つことは無い。

人は、その他の動物とは違い、知性を得たのと同時に迷いをも得てしまった。赤ん坊のころの動物的な迷いから始まり、生が進む中で世の中、世界を知り、生きるということ、死に向かうということに対して、迷いを深めながら生きていく。

この迷いから逃れるために必要なもの、救いになるものとして信仰が生まれた。迷いの集合体である迷路の中には、迷いの対極である悟りの道が存在する。迷えるものに対し道を示す。これは、信仰であり、信心であり、宗教である。

ラビリンスというのは、振り子のようにゆらゆらと揺れ動く1本の道である。迷路の中から余計なものを削ぎ落としていったとき、それはラビリンスとなる。複雑なように見える迷路も、生から死に向かい、その全てが終わったとき、もう戻ることは出来ない1本の道だけが残る。そこに、迷いは存在しない。

迷路の中には、すぐには見えないだけで最初からラビリンスは存在している。ラビリンスが1本道なのは、死を迎えた状態を示しているからではないのか。振り子のようにゆらゆらと揺れながら行ったり来たりを繰り返しているのは、人の幸、不幸のバランスは、実は調和していると示しているのではないのか。

知性の裏には迷いがある。つまりは、人の知性の象徴として迷路はあるのだ。

Ashra(Manuel Göttsching)/Sunrain


 
 
 

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